曾祖母はイタコでした
私の母方の曾祖母は、とてもいいところのお嬢さんに生まれました。
しかし、産んだ4人の子どもは自分より早く亡くなり、お嬢様から借金を抱えるところまで 転落します。 さらに重い病気を患って、両目が見えなくなり、その病気は誰にも助けられない、と医者 にも言われてしまいます。
もはやお祈りするしかない、という状況の中、曾祖母はお稲荷さんにお百度参りに行きま す。 すると病気が治り、その後さらに対馬の和多都美神社に行ったとき、イタコの力が降りてきました。
それ以来ずっと神様の道を歩み、白装束で生き、他の人のためだけに生きる、というお仕事をしていたのが、曾祖母でした。
そんな曾祖母との、ある印象深い想い出があります。 曾祖母と、和多都美神社にお参りに行ったときのことです。 その日は、和多都美神社を含め対馬のあちこちを貸し切りのタクシーで巡ったのですが、 大変な雨が降っていました。
ところが、タクシーが停まった瞬間、雨がやむ、ということが1回のみならず2回続き、 さらに3回目くらいのときに、タクシーの運転手さんが笑い出して、
「こんなに雨なのに、停まればまた晴れるんですよね」
とおっしゃり、そして3回目も本当に晴れました。 このあとも、和多都美神社にお参りに行くたびに雨でしたが、いつもお参りするときは晴れる、ということが起こり、私は子供心に、曾祖母にはなにかあるのかなと思った出来事でした。
一方私には全然そんな力はなく、
子供時代はほとんど人と話すことができず、常に引きこもっており、じっとしたまま動かないことが多く、自閉症を疑われていました。
そんな私は変わったことをしようとは思っていませんでしたが、何かを話すと人に「えー?!」と言われることが多く、ますます口を閉ざすようになります。
私の生まれ育った環境では、みんなと同じことをしなければいけない、という風潮が強く 、そんな中で私の存在は、どこか浮いており、私も息苦しさを感じていました。
転機になったのは、イギリスへ行ったことです。
友人に誘われたことがきっかけで、もともと漠然と行ってみたいと思っていたのもあり 、1年のボランティアのビザで行くことになったのがはじまりです。さらにこのあとイギ リスで出会った人と結婚し、結局13年間イギリスで暮らしました。
イギリスに行って思ったのは、私ってそんなに変じゃないんだ、ということです。
日本だと何点取れないとダメということや、どこどこのお嬢さんはお茶もお花もやって、 とか、どこの大学に出ているから、など「普通」のレールがあります。 でもそういうのが、向こうに行ったら何もなく、日本で普通だと言われることが、海外に行くと当たり前ではないことを知ります。
たとえば私はイギリスに行って料理が好きになったのですが、というのも、向こうは料理 と言えば缶詰をチンするくらいなので、チャーハンを作ろうものなら、「お前は天才か」 と言われるのですね。 イギリスの方は、教えても、みじん切りができない。マッシュルームは半分に切るのが限界で、野菜炒めにしかなりません。
しかも本当にフィッシュアンドチップスしかないのです。
1981年から94年までイギリスにいて、その頃に比べると今はよくなりましたが、ピュアな イギリス人の作る料理はその後も美味しくないと思います。
ホームステイで私が行ったところは幸運で、イギリス人のご夫婦でしたが、スペイン料理 的な感じで料理もすごく美味しかったです。一方友人は、未亡人のおばあさんのところに ホームステイしたのですが、ほんとに料理がまずくて、同じお金なのに、と文句を言った らじゃがいもが1個増えたというようなこともありました。
さらに、海外で生きていると、誰とでも話さないと生きていけないので、誰とでも話せるようにもなってきました。
そんな海外では、イギリスに行くのも友人に誘われて・・・というはじまりからしてそうなのですが、私が何かをしようとするわけではなく、いつも誰かに誘われて、あちらこちらに行くことになります。
いろんなところでこいこいと言われるのですね。たとえばそこにいるおじさんにこいこいとされて、地下のビール工場に連れていかれたり、みたいなことがよくあります。
みんなは誘われても行かないけど、私は行かないと納得しない感覚でいつも行ってしまいます。
友達と遊ぶときも自分から誘ったことはなく、結婚も、ビザが切れたら帰らないといけない、と話していたら、じゃあ結婚すればいい、と誘われて、など、素直に聞いてしまいます。私の人生の中で誘われて断るということがありませんでした。
そういうふうに誰かに誘われるのを受けていたら、あちこちに行くことになり、気付いた
ら、世界35か国を旅することになっていました。
ヨーロッパの国はイタリア以外、歴史にまつわるところも、ドイツのベルリンの壁を見たり、ソビエトに行ったり、パキスタンやイスラエル、ガンビアなどなど、あまり聞かない国のあちらこちらまで。時には、ウクライナのチェルノブイリ爆発の2週間前に行ったり、というような経験もしました。
とにかく価値観がひっくり返るようなことばかりでした。
日本に居た頃はほんとに、25歳までに結婚して、ある程度いい学校にいって、ある程度いい成績とって、などそういう「普通」のことをずっとやっていたときに、ずーーーーーっと胃が痛くてしょうがありませんでした。
今考えれば、誰から見てもいい子になろうとしていて、でもその時はそれで追い詰められ、死にたいと思っていました。
だけど、違う国に行くと、あんたの鼻かっこいいねとか、ぽっちゃりしていた子も、あの子いちばんきれい、というのも言われたり。車が事故でぶつかったら、殴り合いをして勝った方が正しい、というような価値観の国までありました。
そういうのがあるというのがわかったら、死にたいというのは全然なくなりました。
だから今でも、色んな所で苦しくなったりするときは、こういう環境はすごくつらいけれど、違う世界の違うところにいくと、全然違うことが起きていると想像できます。
そうすると、自殺とかを考えなくなりました。
それと同時に、日本の良さにも気が付くことになりました。
まず日本のパスポートはすごく優秀です。
他の人がとめられていても、割とすーっといける。
テロリストとかいないし、信頼されているからですね。
逆にコロンビアなどから来た人たちは、とめられたり、タクシーを手配したけれど、すっと出してもらえなくて、10時間くらい止められたりします。麻薬を持っているかもしれないと思われていたりするからです。
そんな感じで海外から見ると、日本という国に対する信用度が高いです。
安全だし清潔だし、ご飯もどこへ行っても美味しいし、電車もバスも時間通りに来るし、お風呂付きのホテルなんて海外では、高級ホテルくらいしかありません。しかも、その高級ホテルでさえ、さび色のお湯が出ます。
ファミレスとかでも、日本はすごくクオリティが高いですが、向こうだと机はべとべとだったり、イギリスのステーキハウスでステーキを食べたときは、嚙み切れませんでした。
そんなことも経験し海外も素敵ですが、日本は神聖さが違うと感じるようになりました。
向こうはワイルドで、景色も大きかったり懐深いところはありますが、日本は何とも言えないしーんとした、緊張感のような凛とした美しさ。
それを海外の人は余計気付くのですが、本当にエネルギーが違います。
竹林がまず違うし、滝も太く育たない。日本はすごくすごくいい国だと心から想うことができたのは、海外に行ったからこそでした。
そんな海外生活は、夫との離婚で幕を閉じました。
離婚の決め手は、占いでした。
占って未来が知りたかったというよりも、友人とかに相談すると心配をかけてしまったりするので、フラットな関係の人に話を聴いてほしかったからでした。
その時、占ってもらったのは、水晶玉で占うおばちゃんだったのですが、水晶玉を見る前のカウンセリングで、離婚について相談したときは、「若い時は色々あるからね、我慢しなさいよ」と、離婚に対して否定的に言っていたけれども、水晶玉を見た瞬間、ハイ別れなさい!といったのが面白くて印象に残っています。
それも後押しとして、私は離婚することになりました。
イギリスは、結婚は簡単ですが、別れるとなると裁判が必要になります。こじれると弁護士を立てたりも必要になってきますが、夫とはいい関係で別れることになり、有難いことに夫側の親戚の方とも、未だに交流があります。
夫は、いい人でしたが弱い人でもありました。
夫に対してはずっと、パートナーといる感覚ではなく、自分の子供を育てているみたい、と思っていました。
今では思うのは、夫は私の前世の子供だったのではないか、ということです。
前世で夫が子供で、その時やり残したことがあったから、今世で結婚して、前世で伝えられなかったことなどを伝えることができたから、もうお互いにお別れになったのでは、とそんなことを考えたりしています。
そうして離婚し、海外に残ることもできましたが、なぜか日本に帰らないといけない気がして、私は再び、日本に帰ってくることになります。
さらにその後日本に帰ってきてからも、外資系の企業に誘われたり、サロン経営に誘われたり、誘われて始めた投資がすごいことになったり、様々なお誘いがありましたが、それはまた別の機会にて。
誰にも誘われなくなった日
そんな中、再び転機が訪れます。
日本にいる間も、頻繁に海外に出かける生活を繰り返していましたが、ある時急に、海外に行けなくなってしまいます。
コロナウィルスです。
海外とのつながりと共に、自由な感覚や人とのつながりが途絶え、そこから私の生活は徐々におかしくなっていきました。
ちょうどその直前、親を弟任せにしてしまっていたので、1回東京を離れないといけない気がしていて、東京から地元に引っ越していました。
コロナの最中に人の多いところから離れることができたのはラッキーでしたが、コロナで海外に行けなくなったことに加え、子供時代息苦しさを感じていた実家の近くに住むことになったことも、おかしくなったことに拍車をかけました。
東京は、話をするのにも自由な雰囲気や国際的な感覚もある程度保てていました。
しかし、地元ではそういうのもいっさいシャットアウトで、派遣会社からもこの経歴は、上司に良く思われないので、あまり書かないでください、と言われてしまいます。保守的な空気の中、ちょっと変わった話をできる人もいなくなり、誰にも何も言えなくなります。
本当に子どものころのことなのに、また昔の自分が戻ってくるのを感じました。
あのまま海外にずっと住めたのに、向こうに住んでいたら楽しく生きられたのに、なんで帰ってこないといけないなんて思ったのだろうと考えはじめ、どんどんどん底になっていきます。
さらに、コロナでみんな外に出ることができなくなり、人とのかかわりが遮断され、誰に
も誘われなくなって気付いたのが、私は何もできないということでした。
海外のことも東京で働いていた時のことも、それらの肩書きみたいなものを取っ払ったときに、私には何があるんだろう、と。そしてこの年になったらまわりのひとは、子供とか孫とか旦那さんとか、そういうところの関わりもあります。母も、良い旦那さんを持っていれば気楽に生きられる、という価値観を持っています。
だけど私には旦那さんはもういないし、一般的な人生も、こちらから断ったわけじゃないけどたまたまご縁がなく、そういうところに価値を見つけられない、見つけようとも思いませんでした。
やっぱり何が一番大事なのかというと本当の自分なんだと。
だけど、じゃあ本当の自分っていったいなんだろうと、それで自分でやらなきゃ、となって自分でやりたいことをとか、好きなことを、と考えるのですが、何も思い浮かばない。
自分でも「こんなに自分って何もできない人なの?」と思うくらい、本当に何も浮かばないのです。
誰かに誘われたなら行くことができるのに、自分で考えたら何もできない。
そんな自分は、人に依存していてダメだと思い、無理やり何かしなきゃと、少しでも海外の繋がりを持とうと輸入ビジネスなどもやってみようかとそういう塾に入ったりもしました。
でも、華やかでセレブな生活を発信するような人も多く、それには違和感ばかりでしたが、それを言い訳にして行動できない自分もダメなのかなという感覚ばかりが強くなっていきます。
さらに人生計画、年金がここで始まる、とかそういう計画を立てて考えてみようともしましたが、それもできない。
だからあなたは心配なのよと母にも言われて、私はダメ娘なんだと思うことが増えていき、小さい頃に母や学校の先生に冷たい目で拒絶された昔のトラウマが想い出されて私には何の価値もないという感覚ばかりが募っていきました。
私には、自分というものがなかったのです。
ついにお告げが
コロナがあけてきたころ、これもたまたまだったのですが、京都の貴船神社にお誘いされました。
夏の暑い日だったので、自分の頭では、暑いのにほんとに行って大丈夫?と拒否しているのですが、誘われたから、と出かけていきます。しかもなぜかその日は、龍に会いに行くというような感覚がありました。
すると、私が神社の軒下に入り、お参りした瞬間、ものすごい滝のような雨がどばーっと降って来て、私のお参りが終わるとスーッと晴れて行くというようなことが起こりました。
しかもその日は傘を持って行っていなかったのですが、私が軒下にいる間だけの雨だったので、まったく濡れることもありませんでした。
それが本当に、龍が降りてきたような雨で・・・
その瞬間、ある言葉が、降ってきました。
「他力こそ自力なり」
はっとしました。
確かに、いままでの運命に関しては、声をかけられてから、それではい、と言って、という感じで、向こうから声をかけてくれるので、それが人生全て、という感じでした。
このホームページも、私を取材したい、私の占いを広めたいと言ってくださった方々が作ってくださったものです。
それは私もまさかこんなに良くしていただけるなんて、というような有難いことばかりでしたが、でも私が苦しかったのは、他力が依存だと思っていたからでした。
そんなの自立していない、この歳になっても誰かを遊びに誘ったことさえないことが劣等感で、それがダメだと思っていた。
でも、私の人生は、断ったことはない。
かけた運命は全部受け入れてきた。
それを受け入れた瞬間、曾祖母がイタコだったことと、繋がったのです。
曾祖母も誰かの魂を自らの身体に受け入れて生きてきた。
私も、誘われたことで人生生きてきた。自分でやろうとしたときほどうまくいかずどんどんどん底になったけれども、誘われたままに受け入れてやってきたら、本当にラッキーだと感じることがたくさんありました。
その時貴船神社に一緒に行った人も、親鸞上人の話をしてくれて、親鸞は他力本願を唱えたひとだけれども、本物の他力本願とは、どんなに悪いように見えることがあったとしても神様を信じ切ってこれが嫌だとかあれが嫌だとか言わずに全部受け入れていくような生き方だったのだと、まさにそんな感じの生き様ですね、と言っていただきました。
私は人のために生きられる人だったのだ、と気づいたのです。
私がない瞬間が私だったのだと。
私の自分軸とは、他人軸こそ自分軸。
それこそまさに、曾祖母が歩んできた人生だった。
そう考えると、この生き方こそ私なんだと感じたのです。
その後、私は導かれるようにタロットカードと出会います。
それまでにも様々な占いに触れてきて、世界を旅しているときから占ってもらったり学んだりしてきました。でもその中でもタロットカードがフィットした感覚になったのは、タロットをめくり話しながら降ってきた感覚の言葉が、私が言っている言葉ではない、自力ではなく他力、という感覚になったからでした。
自分でも驚いたことがあったのですが、不倫相談で、この人と結婚できますか、というようなご相談をいただいたときのことです。世間的に見れば、不倫なんてやめたほうがいいとかそういう意見がありますよね。私も頭の中ではそういう考えは出てきます。
だけれども、タロットを引くと、その人は不倫相手じゃない、神様みたいな感じの相手だと感じていらっしゃった、というような言葉が降ってきたのですね。それは自分でも思ってもいなかったような言葉で、自分で言いながらそんな考え方もあるんだ、それは諦められないよね、と感じたくらいです。
常識や普通の枠を飛び越えて、その先のものをお伝えできる。
そういうことがタロットカードでは起きました。
それは、以前、私が離婚するかどうか悩んでいるときに相談した水晶玉のおばさんが、占う前は離婚なんてやめたほうがいいと言っていたのに、占った瞬間ハイ別れなさい!と言っていただいて背中を押してもらえたあの感覚を想い出します。
誰にも話せなかったことを、「常識」の外で聴いてもらえて救われたあの日のことを。
だからこそ、それで悩める方が喜んでくれるなら・・・と思います。
私自身もたくさん悩んできました。
自分が浮いた存在であったこと
普通ではないと思って生きてきたこと
親との価値観の違いに苦しんだこと
自主性がない劣等感に悩んだこと
どう生きればいいかわからなかったこと
でも、海外に行って普通というのが普通じゃないということ、視点や場所を変えれば価値観は変わるということも経験したり、龍神様からのお告げやタロットカードからも、一般的にこうしなければいけないというような常識はないということを教えられました。
自分の信じている価値観だけが世界じゃない。
自分でも気づかないうちに、刷り込まれてしまった、こうあらねばというようなもの、そういうものを取り払っていったさきに、自然と道はひらけてくる。
そういうのを取り払い希望の言葉をお伝えするのが、私のお届けするタロットカードです。
自信がなくても大丈夫です。
天から風に乗って届く瀧のようなあなただけのメッセージをお届けします。